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   ア ク タ   acta  第2号 
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                               1993/5/15発行

−−−−−フランスの新聞に載ったフランス艦隊の長崎来港−−−−−

 『幕末日仏交流記』第9章にある弘化三(1864)年フランス艦隊の長崎来港については、当時フランスで発行されていた週刊の絵入り新聞“L'Illustration”紙にも関連記事がある。これは、1847年1月9日号に掲載されたもので、フランス海軍省に届いた報告に基づいている。以下にその訳文を掲げる。 [ ]は訳者補

   フランス海軍

 前号で報じたように*、海軍省はセシーユ提督が、海軍分遣艦隊を率いて、ヨーロッパ人、つまりオランダ人に開かれた日本の唯一の港、長崎Nangasaki寄港に関する報告を受け取った。7月28日朝、軍艦が長崎港にようやく錨を下ろすと、好奇心に満ちた人々や、商品、野菜、鳥肉、新鮮な食糧を売りに来た多くの舟に囲まれた。ひときわ立派に飾り立てた小舟でやって来た役人が、供の者たちと一緒に警戒心も横柄さも見せずに乗船して来た。彼らは、法律に定められているし、自分たちの暮らしのためにも、上陸しないようにと提督に対して言いに来たのである。しかし、彼らは大変礼儀正しく、艦に必要な品はすべて供給すると約束し、ほとんどの者は始めて見るこの立派な軍艦に、とりわけ興味を覚えたようであった。提督は彼らをあちこち案内させ、諸設備・資材・索具[船で使う綱]・大砲・武器に至るまで全てを見せ、使用方法さえ教えるように命じた。彼が夕食に引き止めた数人の者は、かなり遅くなって帰った。
 夜の間、沿岸一帯は多くの灯火と舷灯で明るかった。美しい長崎港のまわりを囲んでいる陸の上では、特に砦や砲台では、人々が右往左往していた。しかし、日本側は単に監視の体制を整えただけであった。というのは、翌日夜が明けるとすぐに、前日の役人らが大勢再び艦にやって来た。すべて前日と同じだった。つまり、礼儀正しさ、穏健な態度、目に入るものすべてを観察する好奇心が同じように見られた。彼らが質問を終え、のべつ記録を取っている数名の書記があらゆることを書き留めると、提督は、食糧を補給したので出航して遠征を続けると、夕方になって知らせた。以上がこの訪問の簡潔かつ正確な話であり、短いながらもその価値が薄れるものではない。[すなわち]江戸の王国政府[幕府]は、フランスが日本の国々[諸藩]の法や日本人の利益を守らせることのできる分別ある乗組員のいる大きな軍艦を所有していることを役人の報告で知ったのである。もし、今勇敢なフランス人宣教師が日本への入国に成功したり、ここ数年日本付近の海にまで鯨を追う我国の捕鯨船が、不運にも嵐に遭い、あまり歓迎してもらえないこの沿岸に打ち上げられたり、あるいはもっと重大なことが起きたとしても。
 長崎を出た分遣艦隊はペチェリ湾や朝鮮の西岸部で数日を過ごしたが、我々の知る限りにおいて、そこにフランスの軍艦が現れたことは、これまでなかった。この航海ではほとんど探検されたことのない沿岸部の測量が行なわれた。しかし、測量だけが提督の目的ではなかった。
 朝鮮の海岸で彼の軍艦を見せることによって、現在王位にある残忍な君主の命令によって捕らえられ、斬首された同僚の代りに、前年この国に入った勇敢な宣教師たちに精神的な援助を行うつもりだったのである。
 晴天の続く季節は終わりに近づき、北の季節風が吹き始めようとしていた。艦の食糧は尽き、提督は艦隊の基地であり、資材の倉庫もあるマニラ港に戻ろうと考えた。8月29日、イギリス人が完全撤退していた船山に行き、中国官憲のきわめて友好的な歓迎を受けた。
 9月28日,周到な計画をもって、滞りなく実行され、実りある成果を得た遠征を終えて、提督はマニラに戻った。それはフランスにとって名誉な思い出をそれぞれの地に残すものであった。

注 * 1847年1月2日付の同紙には、長崎港が描かれている版画とともに、日本に
   関する  最初の記事が掲載された。それには、「我国の人々が昨年、日
  本で歓迎されたことを近々お知らせする」とある。


−−−−−バナナの布について−−−−−

 173頁、11行目に「バナナの布」というのがでてくる。琉球側の書簡にある「蕉布」の訳語である。「蕉布」すなわち、芭蕉布のことだが、それをフランス語に訳す際に、なぜ「バナナの布」となったのかが疑問として残った。たぶん黄色い色からの連想ではないかと考えたりしてみた。
 その後、偶然に、新聞に中国物産展の広告が出ていて、それに「実芭蕉」と書いて「バナナ」とルビが振ってあるのを見た。「蕉布」=「バナナの布」と解釈したのは、広東出身の中国人オーギュスタンであるが、果たして本当に中国語でバナナを「実芭蕉」と書くのであろうか。そこで、中国語が得意で、台湾や中国のシルクロードまで旅をしている友人(鈴木公子氏)に尋ねてみた。一般に中国語では「香蕉」(シャンジャオ)ということが多いとのことだが、「芭蕉」というのもバナナを意味すると聞いたことがあるというので、『日中大辞典』で確認してもらったところ、「インド原産の芭蕉はバナナである」ということであった。これで、やっと疑問が解けたのである。


−−−−−ドゥ・ラグルネについて−−−−−

 9頁、6行目のドゥ・ラグルネ氏について、注としてp.270の(5)では、ごく簡単に説明しただけだが、その後判明したことについて付け加えておく。いわゆる19世紀ラルース(百科事典)によれば、Theodose1-Marie-Melchior-Joseph de Lagren 2 (1800-62) フランスの外交官でアミアン生まれ。22年外務省入省、44年中国との条約締結交渉のためマカオ入り。耆英と会談を重ね、10月黄埔条約締結。批准を待つ間、中国におけるキリスト教信仰の自由を求める交渉を行い、中国人の信仰や教会建設の自由を認める2通の勅令を出させた。(これについては本書p.285-6注(29)参照) フランスに帰国後政界から引退、北フランス鉄道の重役になった。

 1 原文では、Theodoreとある。
 2 原文では、Lagreneeとある。
  1、2ともに、原文と19世紀ラルースのどちらの綴りが正しいかは調査中である。

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