『幕末日仏交流記』とは

フォルカード著 中島昭子・小川早百合訳(中公文庫)[ISBN4-12-201987-7]


 1844年〜1846年、琉球に滞在したフランス人のカトリック神父フォルカード師の書いた日記の翻訳です。
 ペリーに先立つこと約10年、鎖国日本の支配下にあった琉球に無理やり滞在しました。本来の目的は、日本へのキリスト教布教で、その手がかりを求めて、まず琉球にやって来たのですが……。
 官憲につねに見張られ、結局、何もできないまま、琉球を離れることになり、2度と日本の地を踏むことはありませんでした。しかし、フランスに戻り、司教になってからも、つねに日本の布教の成功を祈り続けていました。
 沖縄に興味のある方、歴史に興味のある方、キリスト教の布教に興味のある方は、ぜひ一度お読みください。(中公文庫です)

 本の中から、面白そうなところを抜粋:

 提督はこう言った。
 「これまで中国では私の名前がシシエと,大変おかしな書き方をされてきました。けれども、私の名はセシーユです。これだと2つの綴りは耳には全く違って聞こえます。この国の文字で、もっと正確に私の名を書いてもらいたいのです。」
 通訳の官吏たちの間に大変な困惑と動揺が広がった。彼らは耳元でささやき合い、どうしたらこの苦境から脱することができるか、深刻な顔をして額を寄せ合っている。だれもまだ何も言わないうちから、高官[総理官]は何が問題なのか知りたがっている。奥間は彼の前にひれ伏し、できるだけ小さな声で−−といっても私が聞き取れないほど小さくはないが--問題を説明した。
 いよいよ心を決めたらしい。隣室で会議が行われ、15分ほどたってから、要求した書類が反古{ほご}のような紙に乗せて運ばれて来た。
 フォルカード師「これは漢字ではありませんか。提督が望んでいるのはこの国の文字なのです。」
 下級官吏「この国の文字では書けないのですが」
[フォルカード]「なぜ書けないのか」
 返事はない。我々が要求を続けたので、またしても論議と逡巡を繰り返し、とうとう決断が下った。あっという間に「セシーユ」という言葉が違う文字で書かれた。
 調べてみると、これはまさに日本語の音節文字であるカタカナだった。

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